ピアニスト
ようこそ砂漠cafeへ
静天凪(せいてんなぎ)です
三月の雨がひとしきり降ったあと
ひんやりとした新鮮な夜の大気を身にまとって
彼は店に入ってきました。
私「いらっしゃい。ひどい雨だったね」
彼「まったくだ」
私「体が震えているよ。雨にあたったせいだね」
彼「そうとも限らない」
私「というと？」
彼「ウイスキーを。そうだな。バーボン……。ジャックダニエルがいい。私は何者に見える？」
私「少なくとも、会社員ではなさそうだ」
彼「震えが止まらない。バーボンの力を借りたい」
私「風邪かな」
彼「明日公演があるんだ。メトロポリスでな」
私「ああ、思い出した。どこかで見た顔だと思っていたがあなた、知ってるよ。ピアニストだろ」
彼「ありがとう。思い出してくれて」
私「明日はなにを？」
彼「チャイコフスキーピアノ協奏曲1番」
私「有名な曲だ」
彼「怖いんだよ。だから震えているのさ」
私「なにがそんなに怖いの？あなたほどのピアニストだ。いまさら緊張に苛まれるはずもないだろう？」
彼「いや。いつだって似たようなものだ。舞台に上がるのは物凄く緊張するよ」
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私「あなたほどのベテランでも？」
彼「一杯だけいただこう。明日の晩まではまだ一日ある。本当はアルコールは一時でも神経を鈍らせるから良くないのだが。。」
彼「ああ。そうだよ。怖くてやりきれない。協奏曲だからなおさらだ。指揮者とも息を合わせてやらなければならない。最近は練習の時でもよくミスをするんだ。 出来ることなら、今からどこかへ脱走したいくらいさ」
私「そんな状態でよくここまで来れたものだ」
彼「ここは別格だ」
私「異次元だから？」
彼「そうだ。滑稽だろ？まだ膝頭が震えている。ジャックダニエルが沁みるなあ」
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私「あなたの音楽を待っている人々がいる」
彼「何の気休めにもならん」
私「あなたの音楽を待っている魂達がいる」
彼「・・・魂か。それはそうだ。厳密には俺はチャイコフスキーの魂の代理みたいなものだが。。魂が待っているなら仕方ない」
私「たくさんの魂達」
彼「ギャラリーは多いが魂は一握りだ。」
私「でも確実にいる」
彼「ああ。聴こえるよ。少数だが彼らの音楽を求める声が」
私「どんなだい？」
彼「決して甲高くはない心の声だ。静かに、とても静かにチャイコフスキーの音楽を愛している」
私「だったら行かなきゃな」
彼「魂の召集ならば仕方ない。だがこのグラスは飲み干そう」
私「あなたの音楽に幸いあれ」
